飛騨一宮水無神社

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創建年不詳
祭  神主祭神:水無大神(御歳大神)。配祀:大己貴命、三穗津姫命、応神天皇、高降姫命、神武天皇、須沼比命、天火明命、少彦名命、高照光姫命、天熊人命、天照皇大神、豊受姫大神、大歳神、大八椅命。
格  式式内社(小)・飛騨国一宮・旧国幣小社・別表神社
文化財 木造神像(50躯、平安時代から随時作成、男神像のみ、像高22.8〜74.5cm、岐阜県指定重要文化財)
大スギ(推定樹齢800年、樹高45m、幹周6.3m、枝張20m、岐阜県指定天然記念物)
水無神社の神事芸能(毎年5月1・2日奉納、鳥毛打・宮踊・獅子舞、岐阜県指定重要無形民俗文化財)
絵馬殿(旧拝殿:慶長12年、入母屋、銅板葺、平入、桁行5間、梁間4間、吹き放し、高山市指定文化財)
神  事例祭:5月2日
場  所岐阜県高山市一之宮町一の宮上
備  考飛騨一宮水無神社が何時頃から祀られているのかは判りませんが、信仰の祖となった位山の山頂には奇岩怪石が数多く点在し、古代人の自然崇拝、山岳信仰の対象となっていたと思われます。「日本文徳実録」によると仁寿元年(851)正月に従六位上に列格したとされますが、明確な記述が無く、実際に「水無神」としての記録的な初見は「日本三代実録」によると貞観9年(867)10月5日に従五位上に列格した事が記載されています。その後も「類聚国史」によると貞観10年(868)7月27日に正五位下に、「日本三代実録」によると貞観13年(871)11月10日に正五位上、貞観15年(873)4月5日に従四位下、元慶5年(881)10月9日に従四位上に列格し、平安時代に成立した延喜式神名帳にも式内小社として列記されました。延喜式神名帳には式内社が8社記載され、「水無神」は小社ではありましたが、最上位に記載されている事から飛騨国の神社の中で最も格式が高い一宮として国事の祭祀を司る立場にありました。朝廷の権威が失墜すると衰微しましたが建保2年(1214)に鎌倉幕府により社領が安堵されると再興し、最盛期には周辺18カ村3千7百石が社領となり、12人の神官が務めていました。歴代領主からも崇敬庇護され、弘安4年(1281)には地頭朝高が洪鐘を寄進し、天文23年(1554)には後奈良天皇震筆の紺紙金泥大般若経を奉納、領主である三木家と神官である一宮家は縁戚関係を結んだ事で社運も隆盛します。豊臣秀吉に従った金森長近が飛騨に侵攻すると庇護者だった三木氏は滅ぼされ、境内も兵火により焼失し荒廃しましたが、その後は金森氏から庇護され慶長12年(1607)には高山藩主(高山城の城主)となった金森長近が拝殿を造営しています。江戸時代中期には大原騒動の舞台の1つにもなり、水無神社は農民達の心の拠として集会所に利用され、安永7年(1778)には水無神社の神官である山下和泉、森伊勢の両名が捕縛され境内の貸出と騒動成功の祈願を行なったとして処刑されています。古くから神仏習合し「水無大菩薩」と称し本地仏として「釈迦如来像」が祀られていましたが、両神官が処刑された事を受けて新たに神官となった梶原伊豆は神仏分離を図り仏教色を廃止し社殿も一新されました。ただし、金森長近が造営した拝殿だけは残され、明治時代に入り明治4年国幣小社に列し、新たに社殿が造営された際も用材は民家に保管され、その後、絵馬殿として再建されています。明治時代に入ると江戸時代に中山道の馬籠宿本陣職を勤め、島崎藤村の父親でもある島崎正樹が宮司を勤め「きのふけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里」の歌を残しています。
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